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光専寺について

光専寺本堂・庫裏、 昭和 20(1945)年6月空襲により焼失。
昭和 35 年旧薬院より現平尾に寺基移転,昭和 38(1963)年本堂建立。

寺伝

光専寺開基は、関白藤原道隆の三男隆家の子孫、肥後隈本城 主菊池家八代能隆の四男、城越前の守隆経十四代の孫、城十郎太郎久基にして、菊池家直系なきあと、城家が隈本城主となり、三代目久基九歳にして父祖の業をつぎ、隈本城に住す。 天正十五年豊臣秀吉、島津義久を征するとき、久基は筑後に迎謁す、よっ て同年本領のうち八百町を賜って、隈本城を退けり、豊臣秀吉九州平定 後、肥後の守護に任ぜられたる佐々成政、隈本城を居城と定めしも間もなく国中の治を失い切腹、騒擾せるを以て城久基は一揆の乱に座せられ、天正十六年筑後に替地仰せつけられる。 その後、久基は世の無常を感じ、十八歳にして武をのがれ、隈本西光寺に いたり、念仏門にいり「浄徳」と号せり。 後、二十五歳の時、当国田尻彦右ェ門先祖を縁として、当国にいたり、三 十九歳慶長十五年黒田長政公より、材木のこらず拝領し、福岡城の東な る薬院に土地を給わり、本堂建立す。 同年黒田長政公より山号鶴城山といただく、福岡城を舞鶴城といい、福 岡城のつづきの山、平尾山一体を鶴城山といった。 黒田長政公より、鶴城山上に光専寺代々の墓地を、同時に光専寺城家の 紋(藤輪の内の剣巴)を受ける。 慶長十七年四月二十四日西本願寺第十二代准如上人御判にて「光専寺」と寺号をいただく。光専寺は延宝年中、筑前の国 真宗西派の触頭(ふれがしら)となり、 博多萬行寺、福岡徳栄寺、福岡光専寺の三ヶ寺にて年番制により明治初年まで。

特 色

寛永 17(1640)年3月27日「聖徳太子・七高僧御影」が下付されて現 在のような内陣・下陣並びに余間を持った本格的な真宗の本堂が一気 に整備されていったことがわかります。家老栗山大膳二女利音光専寺第3世住職伝正の坊守。その妹が第3世伝正弟十蔵の妻。 新見太郎兵衛(2 代藩主忠之の室 養照院の実弟)の墓(遺言により)と絵 像光専寺にあり。


親鸞聖人700回大遠忌法要記念 世話人婦人会
昭和 42年4月22日、右後2列、16世と抱かれた17世厚慈。

光専寺門徒 昭和36年3月本山参詣